定義の意味・・・ある物事についてそれを表す用語の意味や適用される範囲をこれだけの条件を満たすものだと定めること
これを踏まえて書き込みます
一言で言うと人それぞれだと思うんですが・・・してみろと言ってるんでやってみます
愛=愛情=好意となります ようするに結局は同じ意味だということです そしてこれらに共通する意味は恋愛感情つまり好きという意味が共通します
私の定義は感情論です
愛の定義・・・好きという感情>その他の感情 だと思います
これを踏まえて書き込みます
一言で言うと人それぞれだと思うんですが・・・してみろと言ってるんでやってみます
愛=愛情=好意となります ようするに結局は同じ意味だということです そしてこれらに共通する意味は恋愛感情つまり好きという意味が共通します
私の定義は感情論です
愛の定義・・・好きという感情>その他の感情 だと思います
【愛】英語で言えば【Love】
みなさんは『愛』といわれて何を想像するだろうか?
友達以上恋人未満?アベック?夫婦?家族?親友?学問?スポーツ?
そう、人それぞれ多種多様の使い道があるだろう。
ここで「愛をいつ感じるか?」という質疑を投じる。
答えは東に進む林ならば「今でしょ」だが、私たち常識人は違う。
通常アンサーは「愛を感じたら」になるのではないかと思う。
そう、『クオリア』である。
愛とは愛以外の『言葉で表すことができない』のだ。
比喩的に表すことはできよう。だがそれは定義なのだろうか?違うだろう。
愛という【何か】を「比喩的に」あらわすだけだからだ。
愛とは『感じる』ものであり『何をどう』感じるかは人それぞれ場合それぞれに終始するのではないだろうか?
続き4行
みなさんは『愛』といわれて何を想像するだろうか?
友達以上恋人未満?アベック?夫婦?家族?親友?学問?スポーツ?
そう、人それぞれ多種多様の使い道があるだろう。
ここで「愛をいつ感じるか?」という質疑を投じる。
答えは東に進む林ならば「今でしょ」だが、私たち常識人は違う。
通常アンサーは「愛を感じたら」になるのではないかと思う。
そう、『クオリア』である。
愛とは愛以外の『言葉で表すことができない』のだ。
比喩的に表すことはできよう。だがそれは定義なのだろうか?違うだろう。
愛という【何か】を「比喩的に」あらわすだけだからだ。
愛とは『感じる』ものであり『何をどう』感じるかは人それぞれ場合それぞれに終始するのではないだろうか?
続き4行
なるほどね・・・
オレが悪かった・・・
教会の結婚式でよく朗読される「愛の讃歌」と呼ばれる聖句があるらしい。
それを引用する
”愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。”
この愛を別の言葉に置き換えると、自分に愛があるかどうかが分かる。
”私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。私は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。”
さて、キミに愛はあるだろうかっ?!
オレが悪かった・・・
教会の結婚式でよく朗読される「愛の讃歌」と呼ばれる聖句があるらしい。
それを引用する
”愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。”
この愛を別の言葉に置き換えると、自分に愛があるかどうかが分かる。
”私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。私は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。”
さて、キミに愛はあるだろうかっ?!
というのは本の受け売りで…
”愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。”
は、どの程度正しいんだろうか?
文学によっては、愛ゆえに殺人を起こすことが美しいとされる場合もある。
文学だけじゃない、実話だってそうだ。
以前、介護に疲れて90すぎの母と、60すぎの息子が、無理心中を図ろうとした事件がある。
息子は母親を殺し、自分も死ぬつもりだったが、自殺は失敗におわり、息子は殺人罪で逮捕された。
しかし、この事件に対する新聞などの目線は、とても同情的だった。あるいは、ある種の愛の形態として捉えていた。
生きることが苦しくて、生きる術がなくなったから、母を殺し、息子も共に死ぬ。これは愛か?
愛に対して、具体例を考えるとキリがない。
愛”らしい”行動を具体的にしてみても、それを批判的にみれば、別の側面では愛ではない。あるいは別の目線では愛ではない。
そんな愛を具体化するとするならば、みんなは、どんな状況を想像するかな〜
って思った他意のないスレでした…
”愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。”
は、どの程度正しいんだろうか?
文学によっては、愛ゆえに殺人を起こすことが美しいとされる場合もある。
文学だけじゃない、実話だってそうだ。
以前、介護に疲れて90すぎの母と、60すぎの息子が、無理心中を図ろうとした事件がある。
息子は母親を殺し、自分も死ぬつもりだったが、自殺は失敗におわり、息子は殺人罪で逮捕された。
しかし、この事件に対する新聞などの目線は、とても同情的だった。あるいは、ある種の愛の形態として捉えていた。
生きることが苦しくて、生きる術がなくなったから、母を殺し、息子も共に死ぬ。これは愛か?
愛に対して、具体例を考えるとキリがない。
愛”らしい”行動を具体的にしてみても、それを批判的にみれば、別の側面では愛ではない。あるいは別の目線では愛ではない。
そんな愛を具体化するとするならば、みんなは、どんな状況を想像するかな〜
って思った他意のないスレでした…
曲でいえば、フランツ・リストの愛の夢という曲がある。
その中でも一番有名な第3番の歌詞はドイツの詩人
フェルディナント・フライリヒラートの詩が用いられている。
"おお愛せよ、お前が愛しうる限り!
おお愛せよ、お前が愛したいだけ!
その時は来るのだ、その時は来るのだ
お前が墓の前に立って歎く時が"
コレはその一部だが、「愛しうる限り愛せよ」とはどういうことだろうか?
果たして愛とは「愛せる」と表現してもよいものなのだろうか?
「まだ愛せる」というキモチは愛と呼べるのだろうか?呼んでいいのだろうか?
上記は否定的な解釈だが一つの好意的な解釈として
「愛とは脆く儚いものであるから今出来る限りの愛を伝えよ」ということを
フライリヒラートはいいたかったのではないか?という説がある。
最後に『お前が墓の前に立って歎く時が』という一節があることから来る考えだが
続き22行
その中でも一番有名な第3番の歌詞はドイツの詩人
フェルディナント・フライリヒラートの詩が用いられている。
"おお愛せよ、お前が愛しうる限り!
おお愛せよ、お前が愛したいだけ!
その時は来るのだ、その時は来るのだ
お前が墓の前に立って歎く時が"
コレはその一部だが、「愛しうる限り愛せよ」とはどういうことだろうか?
果たして愛とは「愛せる」と表現してもよいものなのだろうか?
「まだ愛せる」というキモチは愛と呼べるのだろうか?呼んでいいのだろうか?
上記は否定的な解釈だが一つの好意的な解釈として
「愛とは脆く儚いものであるから今出来る限りの愛を伝えよ」ということを
フライリヒラートはいいたかったのではないか?という説がある。
最後に『お前が墓の前に立って歎く時が』という一節があることから来る考えだが
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傷つくならば、それは「愛」ではない
ある心理カウンセラーの言葉なんですが、消去法的に愛とはなんであるか?について、
あるいは愛はどうあるべきか?について、控えめながら挑戦的に言い当て、
人々に自戒とともに誤った認識との決別を突きつけるものだと思います。
(迷いなく愛を誤解している人にこそ、愛の名の下に傷つけることを安易に許容していないか?と問いたい。つまりこの言葉の射程の最前列に並ぶのは、愛を免罪符にして「体罰」などを許す教育の効率化だったりだと感じます)
天才さんの上げた無理心中の例では、親を殺したのは子の愛ではなく、生活苦で、
この場合の愛は危機的状況を打開するための価値判断の指針にほかならない、
という解釈もあるでしょう。究極的な判断の指針としてすがるものが、愛ではないか、と。
生活苦を重ねて生きていこうとすることよりも、一緒に死ぬ(あるいは殺す)ことが、
人間としての尊厳なども含めて、彼ら(あるいは彼)にとって、
傷つかないことだったのだしたら、それは愛であったのかもしれない。
もしそれが、疲弊した状況で利己的に選んだ、
あるいは選ばざるを得なかった選択なのだとしたら、
逃げや打算でしかないということになるのかもしれません。
愛は傷つけない、というのは、私には信じたい定義です。
誰も何一つ傷つけないということはありえない、という現実的で不可避に見える問いは、続き21行
ある心理カウンセラーの言葉なんですが、消去法的に愛とはなんであるか?について、
あるいは愛はどうあるべきか?について、控えめながら挑戦的に言い当て、
人々に自戒とともに誤った認識との決別を突きつけるものだと思います。
(迷いなく愛を誤解している人にこそ、愛の名の下に傷つけることを安易に許容していないか?と問いたい。つまりこの言葉の射程の最前列に並ぶのは、愛を免罪符にして「体罰」などを許す教育の効率化だったりだと感じます)
天才さんの上げた無理心中の例では、親を殺したのは子の愛ではなく、生活苦で、
この場合の愛は危機的状況を打開するための価値判断の指針にほかならない、
という解釈もあるでしょう。究極的な判断の指針としてすがるものが、愛ではないか、と。
生活苦を重ねて生きていこうとすることよりも、一緒に死ぬ(あるいは殺す)ことが、
人間としての尊厳なども含めて、彼ら(あるいは彼)にとって、
傷つかないことだったのだしたら、それは愛であったのかもしれない。
もしそれが、疲弊した状況で利己的に選んだ、
あるいは選ばざるを得なかった選択なのだとしたら、
逃げや打算でしかないということになるのかもしれません。
愛は傷つけない、というのは、私には信じたい定義です。
誰も何一つ傷つけないということはありえない、という現実的で不可避に見える問いは、続き21行
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